TOP第10回入賞作品第10回 最優秀作品賞「未来への地図」
最終更新日 : 2024/12/02

第10回 最優秀作品賞「未来への地図」

未来への地図
ぴよぴよこさん(大阪府 三島郡)

 人間ドックを受け始めるきっかけや受け始める年齢は迷うものだ。私は、そのきっかけを20代で持つこととなった。29歳の時、母を末期がんで亡くしたから。母もまだ54歳という若さだった。常に明るく元気な母は家族の中の太陽だった。昔から風邪一つひいたことのない母。姉や私はよく風邪をひく子どもだった。風邪をひくといつも、温かな部屋の中に母の心配そうな優しい顔がある。部屋は薄く柔らかい陽が入るくらいに調整され、お昼頃になると鰹節のいい匂いがする卵のおかゆが出てくる。風邪なのに幸せを感じてしまうような、病気であるひとときが好きだった。滅多に病気にならない母だったので、私たちは看病したことがない。だから、母が倒れて救急車で運ばれたと父から連絡があったときは、携帯電話を落とした。手の震えが止まらなかった。父の声はすでに泣き声であった。医師は、はっきりと母に手術ができない状態にある。と伝えた。もう、その時には手術ができないくらいにがんが広がってきてしまっていたから。その時、父は血が滲むほど強くグーを握り、涙を堪えながら、「先生、どうにか、どうにかならないのですか」と絞り出すように、うなった。温厚な父のそんな顔を初めて見た。母は緩和ケア病棟に入り、痛みと戦いながら緩やかな時間を過ごすことになった。

 忙しい仕事からも解放され、趣味の編み物をしたり、父の手料理を運んでもらって食べたり、それなりにゆったりと過ごした。そんな最後の幸せのような時を経て、病室から見えていた満開の桜が、葉桜になった頃に旅立った。私と姉と父は残された。というくらいの絶望と寂しさを抱えた。病気と戦いたい、ということさえ出来なかった母を想い、私たちは人間ドックに行こう。そして、早期発見したら病気とは戦っていこう。と決めた。

 「一年に一回の母のお墓参りの日に、その結果を持ち寄って母に報告しよう」と約束した。私たちが健康でいることの知らせを、空の上の母も喜んでくれると思ったから。

 ある年、人間ドックの検診結果を持ち寄る前に姉から電話がかかってきた。姉が「子宮頸がんが見つかった」と言った。姉はまだ30代前半だった。私はパニックになり、「いやだ、どうして、お姉ちゃんまでいなくなるなんて嫌だ」と言ってしまった。姉は冷静に

 「私はね、とっても早い段階で見つけることができたの。医師も、手術で大丈夫と言ってくれているから。心配し過ぎないで。私たちは早期で見つけて病気をやっつけるために人間ドックを受けているのでしょ。だから、大丈夫よ」と優しく、そして冷静に私に言った。私はしばらくのパニック後に、自分の行動を恥じた。一番不安なのは姉なのに。私はどうしてあんな不安を掻き立てるような一言を発してしまったのだろうかと。姉は結果を見て、私に連絡するまでに、どれだけの不安と心配と心細さを感じていたのか計り知れない。でも、私と父を驚かせないよう、冷静に事実と未来への希望を伝えてくれた。姉の強さに私はまた感動し、涙した。

 それから、私は少しでも姉に寄り添いたいと思い、姉に付き添い、精一杯の愛を送るようどんな時も手を握り続けた。姉の手術は成功した。そして、現在、姉は昔と何も変わらない笑顔を家族に振りまいてくれる。私たちは結婚して、子どもが増え、今では実家にたくさんの人が集うようになった。たった3人になってしまった家族が今は9人の元気に笑い合う家族へと変化していっている。現在でも続いている人間ドックの結果診断表を見せ合う会は、前向きな未来への展望書として大切にしている。

 父も血圧が高くなったり、私も甲状腺の変化など少しずつの変化が年と共に増えてきている。しかし、私たちは未来への展望とともに対策をすることができている。現状を知ることは予防や対策の考えを持つことが出来るし、体調の変化に敏感に耳を傾けることもできる。私は未来への地図のように、自分自身で明るい未来を紡いでいくことができると感じている。そして大切な人たちの笑顔も守っているように感じる。母の病気のことを想えば、早くから家族が気づいてあげられれば良かったと思うばかりだが、母の愛は家族に、そして孫たちへと紡がれていき、今あるみんなの笑顔を守ってくれているのだと感じる。あの日、母とみた満開の桜の時期になる度に、心が寂しくなるけれど、そういう悲しい思いを、少しでも減らせるように、私たちは検診を受ける。未来は自分で少しでも良いものに変えられると願って。