「母が教えてくれた早期発見」
落合恵子さん(兵庫県 宝塚市)
コロナの嵐が吹き荒れはじめ、世界中が灰色の世界になりつつあった2020年5月。市の広報誌を眺めていたら最後のページの「市民向けがん検診のお知らせ」という記事と目があった。当時はステイホームの大号令中。しかし「がん検診は不要不急の外出ではないです。自覚症状がなくても受けましょう。早期発見こそ大切です。」というキャッチフレーズに目が丸くなった。中でも「早期発見」という言葉が矢のように心にぐぐっと突き刺さって離れない。勤務先を退職し専業主婦になって以来、受けていなかった乳がん検診だったが、この年初めて市の検診を受けてみようと思った。今思い返せば、なぜあの矢が突き刺さったのか。あの日、よし検診を受けようと思わなければ、今頃どうしていたか。私は手遅れになっていたかもしれない。何の自覚症状もなかったのだから。
私は実の母親を卵巣がんで亡くしている。享年55歳。発見時すでにステージ4の末期がんで、開腹手術を試みるもなす術がなかった。私は長男を出産したばかり、母を亡くしたショックで顔面神経痛を発症してしまい、乳児を抱えての母のお葬式は、辛すぎてその記憶がないほどである。「手遅れ」という言葉にどれほど悲しみを覚えただろう。「早期発見」という言葉の矢が突き刺さったのは「手遅れ」の反対語だからだ。天国の母が私を守ってくれたとしか思えない。「あなた、きちんと検診を受けなさいよ」と、母が教えてくれたのだ。
市の乳がん検診はピンク色の大きなバスの車内で行われた。すごく痛いのではと心配していたマンモグラフィー検査は、女性の担当者で恥ずかしいこともなく、痛みも我慢できる程度だった。
検査後約3週間経って、結果通知を受け取ったが「要精密検査」の5文字に愕然とした。念の為詳しい検査をもう一回受けてね、という意味だろうとは思うが、かなり動揺してしまう。インターネットで調べると、要検査といわれても実際に精密検査をしたら、がんではないことも多く、そこまで恐れることはないという。その時、私の心の中の声は、「そもそも全く自覚症状はないし、検診にいかなかったことにして、この結果も見なかったことにして、来年もう一回この検診を受けてみて、もしまた引っかかったら、精密検査にいけばいい」と言っていた。今、この場ですぐに精密検査に行く勇気がなかったのだ。しかし調べた体験記の中に、とにかく一度精密検査を受けてみて「がんではない」と分かって生きていく方がずっとストレスがないから、ぜひもう一歩進むべき、という意見があった。一晩じっくり考えて「安心するために精密検査を受けてみる」という結論になった。家族のためにもそれが一番いいと思った。母親のことが頭から離れてはいなかった。病気の「手遅れ」は、本人も家族も同じくらいきつい思いをしてしまうことを知っていたからだ。
翌日、乳腺外科のあるところを探して、検診結果を握りしめて、勇気を振り絞って、初診の門をたたいた。あくまでも、問題ないという結果を得て、スッキリしたいという気持ちからだった。そんな私が担当医師から、本当のがんの宣告を受けた時は、「え、まさか。あらま、本当に?」という半分冗談みたいな受け答えで、心ここにあらず、の様子だった(と、思う)。引きつった顔で苦笑いしかできない私に、担当医師はもったいないほどの寄り添う気持ちを示して下さり、さまざまな治療方針を説明してくれた。標準治療のなんたるかまで。私もメモをしながら納得できるまで聞いて聞いて心を開いていった。そして母の話も打ち明けることが出来た。
あれから3年が経つ。私のステージ1の乳がんの手術は乳房の一部摘出のみですみ、経過も今のところ良好である。抗がん剤治療もなく、再発防止のためのホルモン剤の治療のみ現在も続いているが、生活の質はおかげさまで問題なく良い。「早期発見」がいかに大事か身をもって痛感している。体験記を寄せてくれたどこかの誰かにも感謝している。体験記をシェアすることでどこかの誰かの勇気になっているのだ。今日もどこかで誰かの背中を押してくれているだろう。
がんは自分一人の問題ではない。かけがえのない家族にとって、いやむしろ家族の方を悲しませる病気である。大切な人を悲しませないために、自覚がなくても検診に行こう。病気になることは仕方ない。理由もよく分からず人間は病を得る。それは悔しいことだし、無力感でいっぱいになることでもある。でも、なにか出来ることがあるなら今すぐ行動すべき。検診に行くことはその出来ることの大きな一つである。面倒でも、お金がかかっても検診には行こう。「早期発見」は、本人にもその大切な人にとっても希望につながる言葉である。ぜひ検診、人間ドックを定期的に受診しよう。大切な人と普通の日常を過ごす時間は有限なのだから。