「蕗の薹(ふきのとう)」
三宅 隆吉さん (福岡県 飯塚市)
加齢のせいか、今は亡き人をふと思い浮かべ、その人と出会った幸せを思ったりする。
その思いはその人の最後の言葉とともにさらに深まり、心のつながりを強めるようだ。
同じクラブ活動で練習を共にした友が20年前亡くなった。プロの球界から誘いを受けた程の逸材であったし、200人程のIT企業を起こした秀才でもあった。
エースで4番打者、さらに容姿の優れた彼は女性によくもてた。
スナックのママと彼は幼馴染みのようであった。「政子さん、この店の感じはいいね。このような場所でお目にかかるとは思わなんだ。いや、相変わらず、お美しい」彼は闊達に笑いながら話す。
「一郎さんこそ立派な紳士になられて、久しぶりにお会いして嬉しいわ……。高校の時の凛々しいユニホーム姿を思い出しますよ」。
傍らの私は寂しくビールを手酌で飲んでいた。その彼が、がんには勝てなかった。
身体の不調を感じた時には既に手遅れだったという。なぜ早く人間ドックを受けなかったのかと、悔しさが先に立つ。
従業員そして最愛の妻子を残して旅立つ時の気持ちはどうだったのか、当時はともかく年を重ねると共にその思いは募る。
彼を見舞ったとき、彼はすでに死を覚悟していた。
「俺は60歳まで生きたい。あと半年後が娘の成人式だ。振り袖を着て出て行くのを女房と二人で見送りたい。ベッドの上からでもいい。ただ、一言行っておいでと言いたいんだ」彼は笑っていた。そして同時に泣いていた。私はどうしてよいのかが分からずに、そばにあった時計を見つめていた。時が恨めしかった。そして別れ際の最後の一言が、「隆ちゃん、俺の分まで生きてくれ」であった。
その1カ月後友は逝去した。
人間ドックの大切さを痛感した友の死であった。人間ドックさえ受けておれば平穏な老後をおくれたはずだ。娘さんの振り袖姿も見れたはずだと悔やまれてならない。
私も妻が40年前がんを患った。
医師によばれ、妻が「がん」であることを告げられた。「まさか!」私はうろたえた。今ほど医学も進んでおらず、がんは即、死だと思っていた。事態の急変に、心がついていかなかった。なぜ健康な彼女が、病気になるのかが信じられなかった。私は毎日仕事が終わると見舞いに駆け付けた。
健康だった妻の手は、注射の跡で青ずみ、顔色も冴えなかった。手をさすり、静かに語りかけるのが私にできる唯一の道であった。
手術後、妻は私の手を握り「できるだけそばにいてくださいね」と目を潤ませて言った。
死を覚悟しているようであった。その時、私は心から妻を愛おしく思った。
死なせたくない、助かってくれと心から祈った。
勤め先の直属の上司N課長が見舞いに来てくれた。
「今は大変だと思う。一番苦しい時に人間の真価が分かる。仕事のことは心配するな、全員で力を合わせて何とかする。君は暫く仕事のことを忘れて奥さんのために尽くせ。奥さんを安心させてやることが大切だ。この苦しい時を乗り越えれば、人間としての幅と深みが出てくる。人は皆そのようにして大きく育って行くのだ」と彼は言ってくれた。
更に「君も知っているように私は一人息子の太郎をがんで亡くした。3年前のことだ。
「私なりに看病は尽くしたつもりであるが、心残りがあるよ。小5の子どもが最後に苦しい息の中で『さようなら、ありがとう』と言ってこの世を去っていった。もう少し彼のため、できることはなかったのかと今でも思っている。
幸い私の場合、妻は助かった。人間ドックによる早期発見のお陰であった。望みはかなえられた。医療スタッフの懸命な努力そして何よりも幼い3人の子供を残して死ねないという妻の強い気持ちもあり、奇跡的にがんを克服した。退院時「良かった、良かった。よく頑張りましたね」と言ってくれた医師の嬉しそうな表情が忘れられない。
スタッフに見送られ病院を出る時、妻はぽつりと「皆さんが神様のように見えたわ」とつぶやいた。妻の明るい笑顔と頬を伝わっていた一筋の涙の記憶は、私の大きな宝となった。
家では薄緑の蕗の薹が私たちを迎えてくれた。健診による早期発見のお陰であることは言うまでもない。
この時の喜びは30数年経った今でも、爽やかな秋風のように、私の心に沁み込んでいる。
身辺を整理し、死に方を考える年齢となった。残された人生をどう生きるかの覚悟を問われていると言っても良い。
多くの方達のお陰で、今日まで生きのびている。その有難さを感じ、人間ドックを受けながら、より丁寧に誠実に生きて行こうと思うようになった。