「愛のバトン」
福原 ふじ子さん(埼玉県)
ある年の四月。無菌室のベッドに横たわる私は病室から桜を見ていた。骨髄移植を受けるために。
きっかけは人間ドックだった。ちょうど四十歳を迎え、会社の補助制度を利用して健診を受けた。だが結果は急性骨髄性白血病。
「先生、そんなわけないでしょう。だってどこも痛くないですよ!」
「落ち着いて下さい。とりあえず入院して化学療法を受けて下さい。」
しかしその一年後。まさかの再発。
「骨髄移植をしないと来年の桜は見れないかもしれません。」
医師の言葉に絶句した。
その帰り道、川沿いには桜が咲いていた。娘を授かった時もこの時期だった。だけど今、桜のようにわが命が散ろうとしている現実。
「私、もう死んじゃうのかな」
思わず弱音を吐く。もし移植をするにしてもドナーが適合しなければできない。兄弟姉妹の適合率は、四人に一人。だが他人だと数百万人に一人にまで下がってしまう。
「残念ですが、お姉様は適合しませんでした」
まるで死刑のような宣告。私は「もう死んじゃうんだ」と泣き叫び、姉は「チカラになれなくてごめん」と項垂れた。
それから自らの死を考えるようになった。基本的に家事をやらない夫に「私はもう長くないから」と料理を教えた。つながったネギ。殻の入った卵。火を入れるたび、焦がすチャーハン。
「もう!これじゃ気兼ねなく死ねないじゃない!」
私が呆れると「だったらその方が良い」と夫。娘は娘で「ママ、『あ』はどう書くの?『い』は?ランドセルはいつ届くの?」と尋ねる。まだまだ手のかかる時期。もし私が死んだら、この子にランドセル以上に大きなものを背負わせてしまうことになる。何だか焦げた炒飯が、余計ほろ苦く感じられた。
そんな中ドナーが見つかった。術前は病気になった骨髄細胞を破壊するため、大量の抗がん剤を投与する。
「気持ち悪い……もう死にたい」
次々と襲い来る吐き気にぐうの音も出ない。そんな私にドナーさんからお手紙が届いた。
『今はさぞかしお辛いこととお察し申し上げます』で始まる手紙。そのあとはこう綴られていた。
『私にも同じような知人がいるのでお気持ちがよくわかります。私はある時期にとてもつらい経験をしました。その事がきっかけで小さな事でいいから世の中に貢献したいと思うようになりました。骨髄バンクもその一つです。この日のために運転を控えました。風邪を引かないようにしました。社内でインフルエンザが流行った時は特に注意しました。そして祈りました。あなたのオペが無事成功することを。きっと今は不安で何も手につかないときだと思います。でも諦めないで。死ぬほどつらくても、死ぬほど生きて欲しいと願う人間がいます。私もその一人です。どうかあなたに平穏な日々が訪れますように。そして命のバトンがつながりますように』
手紙は、最後、涙で滲んだ。
私は手紙を読んだあと、しばらく何もできなかった。自分ばかりが「つらい」と思っていた闘病生活。でもそこには「生きてほしい」と願う人々の大きな支えがあった。私は一度でも「死んで楽になりたい」と思ったことを心底反省した。
そんな闘病生活を経て、いま思う。『愛』って何だろう。「がんばれ」という言葉ではがん細胞は減らないし、なくならない。ましてや寛解だなんて。だけど『愛』があるからこそできることがある。それはどんなに辛くても、その人のことを思うだけで、頑張れる不思議。そう。『愛』はクスリ以上の抗がん剤だった。
あれから春先には欠かさず検診を受けている。そしてわずかな年金から白血病患者さんへの寄付を続けている。本当はドナーになりたいが年齢や病歴からそれは叶わない。それでも「ママの命はドナーさんの命でしょ?ママに愛をくれたんでしょ?だったら生きなきゃ!」と娘が叱る。いやはや『あ』『い』を教えた娘に愛を教わるとは。
だから今、私は強く生きたいと思う。一日でも長く。一日でも健康で。そのために検診を受ける。
それが愛のバトンを受け継いだ者の使命だと思うから。
