「新生のキッカケ」
森 惇さん(千葉県)
「えっ、精密検査?!」
「そう…。言いたくなかったんだけど、その日は
家にいられないから…」
病気知らずの妻が健康診断で初めて引っかかった。乳がん検査の結果が、「要精密検査」だったのだ。これは、私にとって青天の霹靂だった。なぜなら、私は長く妻に看護されながら生活をしている身だったからだ。自分一人では起き上がることもままならず、入浴も妻の助けを必要としていた。外出して買い物をし、食事を作るのもすべて妻だった。妻がいなければ生きられない状態だった私は、頭が真っ白になった。
今まで〝看護される側〞だった私は、いつの間にか思い違いをしていたようだ。妻がいつまでも健康でいられるという幻想を抱き、それを空気のように当然のことだと信じて疑わなかった。
しかし、精密検査の知らせは、「未来、いや明日の命さえも本当は誰にも保証はない」という厳粛な事実を私に突きつけた。当たり前のように妻から看護され、励まされ続けていた日々。それが一転し、妻を励ます立場となった。妻が時より見せる不安な表情や言動に接して、初めて看護する側の「自分ができることは限られている…」という無力感や、「良くなってほしい」という祈りの気持ちを理解することができた。「妻もずっとこんな気持ちだったのか…」と、私はようやく知ることができた。だが、それと同時に不安な気持ちも心に押し寄せてきた。
「もしも、妻ががんだったら、どうすれば良いのだろう」
「そのがんが、手遅れなほどに進んでいたとしたら…」
調べてみると、若い女性であっても乳がんで亡くなっている事例があることを知った。病気は、いつ誰に訪れてもおかしくない。未来は対等なの
だ。にもかかわらず、私は勝手に「妻は大丈夫」と、あぐらをかいていた。健康な妻が世話をしてくれる日々は当然ではなく、奇跡のような日々だったと今更ながら痛感した。今まで自分のことばかり考え、勝手に未来を悲観して落ち込んで、時には妻へ八つ当たりさえしていた自分が情けなくなった。妻に頼りっぱなしの甘い人生観と、看護の苦労に思いをはせられなかった過去の自分に対して、私は深く反省するようになっていった。
精密検査の結果が出るまでの数週間、私は不安な気持ちを払拭することはできなかった。しかし、一方で良いこともあった。看護する妻の負担や気持ちを初めて真剣に考えられたからだ。そして私の心に、小さな自立心も芽生えてきた。
私は誓った。「まず、支えてくれる妻に毎日感謝の言葉を伝えよう。そして、妻に極度に依存することは止めよう。やれることは、一つひとつ自分でやる努力をしていこう」と。もちろん、いきなり自分でやれることは数少ない。だが、心まで完全に依存していた今までの態度を、少しずつ改めていこうと決意した。こんな状態であっても、口は自由に動く。私の思い次第で、「ありがとう!」とは何度だって言えるのだ。看護する側の妻も、同じ人間であり、大変な日々を共にしてくれている。私には言えない将来の不安や、看護のストレス・無力感も日々つきまとっているはずだ。いつも明るい妻だったが、私のために気丈に振る舞ってくれている部分だって必ずあるのだ。今まで考えもしなかった看護する妻の苦労を考え、せめてこれからは妻の心身にできるだけ負担をかけないようにと思い直すことができた。
そうして私の心が徐々に変化するうちに精密検査が終わった。妻は幸いにも、「石灰化と良性の腫瘍」ということだった。そして、医師から経過観察として毎年の乳がん検査を指導された。妻から結果を伝えられた時は、覚悟はしていたものの安堵からしばらく泣き崩れてしまった。
あれから、数年の時が経った。振り返ると、あの健診が私の心を入れ替えるきっかけになってくれた。今では徐々に自分でできることも増え、少しずつだが妻を楽にすることができてきている。もちろん、時々言い合いになって、「ありがとう!」と口に出せない日もままある。それでも、妻への感謝を忘れた日はない。健診の封書は毎年ちゃんとポストに届く。その封書を見るたび、気が引き締まる。そんな私を見て、「顔がこわばってるよ〜」と妻はにこやかに笑ってくれる。私は静かに、「妻の健康が続きますように…」と心の中で祈った後に笑い返す。こんなささやかな幸せを、大切に大切にして暮らしていきたいと心底思う。互いに命があること自体、本当は奇跡なのだから。そのことを決して忘れず、終わりある日々を妻と懸命に生き抜いてゆきたい。
