TOPその他武専(ぶせん)ってどんな学校だったんですか?
最終更新日 : 2020/04/17

武専(ぶせん)ってどんな学校だったんですか?

1905年(明治38年)から1947年(昭和22年)まで、京都にあった私立の旧制専門学校のことです。正式名称は大日本武徳会武道専門学校、略称が武専(ぶせん)と呼ばれています。

1894年に日清戦争が始まり、全国的に武道で国民の気持ちを高めようというムードが高まる中で、翌1985年が、桓武天皇が都を京都(平安京)に移されてから1100年の節目にあたることから、桓武天皇が大内裏に武徳殿を建てて諸国の武芸者を集めて奨励したという故事に習って、定期的に武道大会を開催できるような組織を作ろうということになり、京都市中の数名の武道愛好家が京都府知事、平安神宮宮司を会の代表にして1895年に第日本武徳会という組織を設立しました。

この大日本武徳会は次のような活動をおこないました。

1、 武徳祭演武大会(いまの京都大会)の開催
2、 武徳殿の造営(いまの武徳殿)
3、 武術養成機関の設立(これが武専です)
4、 古武術や古武具の保存や文献資料の収集
5、 機関誌「武徳」の発行
6、 称号制度の確立(いまの段位制度の基礎作りに貢献しました)
7、 剣道形の統一(いまの日本剣道形の基礎作りに貢献しました)

上記3にて設立された学校が、大日本武徳会武道専門学校、略して武専です。

学校教育における武道指導者(剣術と柔術)を養成するために1905年に設立されました。

設立当初は武術教員養成所という名称でしたが、1912年に武術専門学校に変わり、1919年に大日本武徳会武道専門学校(武専)という名前に改称されました。

剣道の指導は、三橋鑑一郎、内藤高治、門奈正を中心とした先生方がおこない、東京高等師範学校、日本体育専門学校、国士舘専門学校と並ぶ、国内屈指の武道指導者育成学校という位置づけでした。

特徴的な指導方針として、1年生は切り返しのみ、2年生は切り返しと掛かり稽古のみで、地稽古は3年生、4年生になってから許されました。試合に勝つ技術を身につけるのではなく、生涯剣道に通じる、真に地力をつけるための基礎作りに重きが置かれていました。

終戦後(1945年)にGHQにより武道禁止、学校閉鎖、武徳会の解散命令が出されましたが、1946年、在校生の救済措置として通常の教科教育を授けることを可能とした「京都文化専門学校」に改称し、武道専門学校としては1947年に廃校となりました。

1947年1月に、第33期(20名)、第34期(25名)をあわせて卒業式をおこないました。
北陸高校剣道部の指導をされていた故 藤塚定男先生は第34期の卒業生で、武道専門学校としては最後の卒業生であったそうです。

31年後の1978年に、京都文化専門学校の卒業者に対して、改めて「武道専門学校」の名で卒業証書が授与されたそうです。

以上です。