TOP第8回入賞作品第8回 優秀作品賞「検診と献身」
最終更新日 : 2026/07/08

第8回 優秀作品賞「検診と献身」

「検診と献身」
ペンネーム 越坂部 富子さん(埼玉県 所沢市)

私の夫はぶっきらぼうだ。そんな夫が、最近、自転車通勤を始めた。理由は密を避けるため。そうは言っても普段は近所のコンビニまで車で行くような夫。最初は無理をして腰でも痛めないかと心配だった。しかし一ヶ月後、夫は見事に三キロの減量に成功した。
 そんな夫のスマホに、ある日、見知らぬ番号から着信があった。

○○○○‐○○‐4771

 何かの勧誘や営業電話だろうか。夫は電話に出るなり「結構です」と言い放った。いつも以上に不穏な空気。「誰?」と聞いても黙ったまま。知らないふりをしたまま、夫はスマホをポケットにしまった。

 だが翌日も同じ番号から着信がくる。
「しつこいですね。私は今、自転車で職場まで行っているんです。おかげで運動不足にもならず、あの時より七キロ痩せています!」
  夫は電話口で声を荒らげた。そして、最後、「だから検診は結構です!」と言い放った。

(ああ、そうか)

 私もやっと状況を理解した。どうやら電話の主は市の保健師さんで、夫は人間ドックを受けるよう説得されていたのだ。それも無理はない。夫は前回の人間ドックで肝臓に1センチのしこりが見つかっている。幸い、良性のため経過観察とされていたが、今年はまだ受けていなかった。

「受けたらいいのに」

 夕食の席で私が言うと、夫は発泡酒を一気に飲み干した。「嫌だ」とは言わないまでも言いたそうな素振り。すると孫が「じいちゃんはなんで健康診断受けないの?」と尋ねた。

「だって、この前、授業で元気な人でもがんになるって習ったよ。じいちゃんか、ばあちゃんのどっちかは、がんなんだよ!」

 孫の表情は真剣だった。確かに二人に一人ががんにかかる時代。なんだか孫の発言は現実味があって、発泡酒の味が急に苦くなった。

「忙しいから、いいんだ!」

 夫は孫を睨みつけ、吐き捨てるように言った。

 だが転機は訪れた。その日仕事から帰ると真っ暗なリビングに光の点滅が見えた。留守番だ。

『夜分に申し訳ありません』

 留守電の主は例の保健師だった。

『私の話をさせて下さい。実は私の夫は結婚一年目に肝臓がんと診断され、半年後に亡くなりました。自覚症状はありません。私はこれ以上同じ病気で誰かを亡くすのが嫌なんです。死なないで欲しいんです』

 女性の声は、最後、涙で震えた。

『死なないで欲しい』

 これほどまでに悲痛な叫びがあるだろうか。彼女の訴えは、夫への懺悔でもあり、一縷の望みでもあるのだろう。留守電を聞いた夫も、しばらく、その場に立ち尽くした。

 後日、検診を受けた夫は肝臓がんと診断された。大きさは5センチ。手術は不可避。それでも再発の可能性は否めない。そんな現実にふたりでたじろいだ。帰宅後すぐ、夫は、あの保健師のところに電話をかけた。おそらく居ても立っても居られなかったのだろう。その様子を察した保健師も

「最近、肝臓がんの治療は非常に進歩しています」

となだめた。だけど最後「これからも検診を受けていけば、絶対、大丈夫」と強く言った。夫は頭を下げたまま、大粒の涙を拭った

 今や二人に一人ががんにかかり、四人に一人ががんで亡くなる時代。自分がその「一」になる可能性は大いにあるし、その「一」の家族になる可能性は、もっと、ある。大切な人が傷つくことは、その家族が傷つき、その人と共にあった暮らしが傷つくことを意味する。だからこそ日頃から自分の身体に関心を持つことは重要。最近は孫の学校でも医師による命の授業が行われている。肝臓は「沈黙の臓器」。膵臓は「暗黒の臓器」。それだけ自覚症状が現れにくく、手遅れになりやすいことを今は小学生のうちから学ぶ。そうした取り組みが命
を知り、命を守る行動につながることは間違いない。何せがんに一番多い症状は『無関心』だから。

 コロナによる受診控えが増える今、今回のように保健師が電話で受診を促すケースも多いと聞く。おかげでコロナ禍のニ年目は全国でも受診率が少しだけ上がった。「元気でいたい」と「いて欲しい」が重なる場所。それが検診。その検診が「献身」と同じ音でつながる意味は、きっと、ある。

 もうすぐまた検診の時期が来る。彼女たちは、また、命の呼びかけをするのだろう。そんな気持ちで検診のビラを眺めると、あら不思議。保健センターの番号(4771)が「死なない」に見えて、なぜだろう、少しだけ、胸が熱くなった。