「男の決意・女の誓い」
大山 久喜子さん(東京都 品川区)
人間ドックの結果を持参し、かかりつけ医の紹介で大学病院を受診。検査を重ね、正式な診断が下されたのは、6月の人間ドック受診から3か月が経過した、秋風の心地よい時節に移り変わっていた。人間ドックの受診を承諾させるところから始まり、医者嫌いの彼をここまでたどり着かせるのには、気が遠くなるほどの道のりで、半分記憶も消えかけていた。
診断結果は腹部大動脈瘤3か所。破裂すれば命の危険を伴う。
現時点では即刻オペを要するものではないが、生涯経過観察が必要とされるという。彼の背中は、淡々と説明する医師の前で老人のように丸まって動かない。患部の位置もハッキリ
しているのだから、素早くオペを済ませてスッキリさせたい。当の本人はどう思っているのだろうか?とその時、「オペはギリギリまでしません。何故ならオペのリスクが高いからです。」息苦しい程に硬直したままの私達を気の毒に感じたのだろう。
「今すぐに破裂する状態ではありませんから、今後注意深く観察していきましょう。」
そう言って医師は彼を覗き込みながら、
「年齢的なものも要因の一つです。これは仕方のないことですから…」と慰めの言葉をかけて下さった。ここでやっと深く息を吸って、ゆっくりと吐き出したのも束の間、
「タバコは吸われますか?」と、トドメの問いに、丸まった背中が「はい」と小さく答えた。どんだけ小さな声なんだい!と突っ込めないほどに、気の毒な背中だった。
「この病気の一番の原因がタバコ。禁煙外来もご案内できますので今一度お考え下さい。」半年後の検査予約を入れて下った医師に頭を下げ、罪人気分の私達は部屋を出た。
禁煙の話は、十年以上前に無駄だと諦めていた。何度も話し合いを重ね、説得を試みたが
「吸えないストレスで病気になるなら、タバコで病気になった方がよっぽどマシだ!放っておいてくれ!」と平生温厚な彼が激高し、完全にシャットアウトされてしまった。昭和の時代を駆け抜けた男達には「タバコ」という嗜好品はつきものだったし、昨今になり突然嫌がらせのように値上げを重ね、金銭的に禁煙を強いるやり方は、吸わない私も疑問を感じるくらいの手法だった。しかし生死にかかわる以上、どうこう言っている状況ではなく、タバコを絶つしかない。どう決意させるか?いやいや、決意とは人に強いられるものではないず。以降、お互い不自然にその話題に触れる事なく数日が経過していった。
ここ数年、毎週末ゴルフの練習が私達の唯一の楽しみで、「二人揃って生涯ゴルフを楽しもう!」というのが合言葉のようになっていた。頻繁にラウンドをする程余裕はないが、練習だけでも十二分に楽しめた。何故なら私達2人にとって初めて、共通の友人がこの練習場で沢山出来たからだ。彼はいつも練習場の椅子でタバコを吸いながら、練習仲間と一緒にあれこれスイングについて雑談をするのがお決まりだったが、あの日以降タバコを手にすることなく、代わりに口をモグモグ動かしていた。こういう時は、誉めた方がよいのか?気づかない振りがよいのか?ぎこちない時間の経過とともに、彼の不機嫌な時間が増え、苛立ちの矛先が私に向けられることが多くなった。彼も耐えているのだから、私も耐えなければと日々呪文のように唱えてやり過ごす。そう、ここで荒声をあげてしまった方が負けになるのだ。「タバコになんか負けるものか!タバコから彼を取り戻してやる!」
完全に禁煙できているとは思えないが、それでも堪える姿は決して嘘ではないと感じた私は、心の中で「てるてる坊主」を吊って、ストレス発散であるゴルフの練習だけは邪魔しないで下さいと毎週祈り続けた。
現在も静かに耐え忍ぶ姿がここにある。喫煙年数分の肺の悪化状態は、一ミリも取り戻せるものではない事を理解した上で禁煙をするという事は、心中やるせないものがあるかと察するが、身体から毒素が抜けてきたかのように、体臭や口臭が激減した事を伝えると彼は素っ気なく「そう?」と呟く。何かしらのストレスを抱えた時には、微かな残り香を漂わせているが、ギャンギャン騒ぐことなく、静かに見守る。彼なりの考え方、やり方で完全なる禁煙へと努力しているのだから。
この戦いは長期戦になる。諦めてしまうかもしれない彼と、動き出してしまうかもしれない大動脈瘤。両者の動きを見逃さないように、毎年の人間ドック受診という大きな力を借りて、タバコから彼を取り戻すその日まで、私はこの戦いに静かに立ち向かうことを密かに誓った。
