「キャンサーギフト」
青池 恵津子さん(山梨県)
もし十一年前、乳がん検査を受けていなかったら、私のがんは進行し、重篤な事態となっていただろう。そして私は人として大切なことを知ることもなくその後の人生を送ることになっていただろう。
二十数年前の同僚の病死を機に、私たちの職場では年に一度、誘い合わせての人間ドック受診が年度末恒例行事となっていた。私も先輩の女性たちに連れられ、市外の温泉病院に毎年出かけていた。彼女らは職場では責任ある立場にあり忙しい日々を送っていたが、 その日一日だけは仕事や家事から解放され、体を休めることができた。言われるままに検査室をめぐり、検査と検査の合間には待合い室で語らい、昼には栄養士が監修したおいしい食事を楽しんだ。検査後は施設に併設された温泉やプールを利用できるのも魅力だった。
私は早くからマンモグラフィー検査を受けていたが、がんを自分事として考えたことはなかった。 先輩たちが定年退職で次々に職場を去った後、私は彼女らと同じ立場となり仕事に追われていたが、「命の洗濯」と称して人間ドックに通い続け、そして右胸に小さな影が発見されたのは十一年前の春先だった。地元の病院で再検査を受け、一週間後にがんと告知され、その場で入院は翌月の大型連休明けと決まった。とうてい信じがたいが受け入れざるを得ない現実に、愛猫のとらちゃんを抱いてこたつにもぐって半日だけ泣いた。あまり時を置かずして、病室に空きが生じて入院日程が早まり、以後泣く暇も思い悩む間もなく、あれよあれよという間に手術となった。ごく早期での発見だったため転移はなく、手術は成功し、術後の痛みもなく、経過は順調だった。以後定期的な検査で経過観察と服薬を続けているが再発のきざしはない。
エコー検査やマンモグラフィー検査ではいまだに緊張するが、十年以上のおつき合いとなって軽口をたたき合う主治医の明るさが毎々不安を和らげてくれている。
私が手術を受けた年の秋、ある女性タレントが自身の乳がんを公表してマスコミで話題となった。その勇気ある告白によってがん検診への関心が高まり、エコー検査の予約が取りにくくなるほどだった。そしてその時知ったのが、がんを克服した別のタレントがテレビで語った『キャンサーギフト』という言葉だった。
――がん(キャンサー)というつらい体験をした人には神様が特別な贈り物(ギフト)をくれます。それは健康なときには気にも留めなかった日々のささやかな幸せに気づく心、周囲への感謝の気持ち、それを『キャンサーギフト』と呼びます。―――ふだん底抜けに明るく快活な彼女がもの静かに語るその言葉はまさに私の経験と重なった。
一週間の入院から妹の車で帰宅したとき、真っ先に目に入ったのは玄関先の小さな庭の緑の美しさ。そのきらきらとまぶしい輝きに視界が一気に明るく広がってゆくような不思議な感覚を味わった。入院中、とらちゃんのお世話は妹に託していたが、初めて私の長い不在を経験したとらちゃんが私の足にすがり寄ってきた。しみじみ愛おしく、生きもの体の温もりに癒され心が幸せに満たされていった。単身赴任先から帰省中だった弟は、休暇中ずっと私の暮らしの手伝いをしてくれた。手術の傷が癒えた後は、隣町の病院での放射線治療が待っていたが、車を運転しない私のために、義妹(弟妻)が送迎役を買って出てくれた。当時彼女は就職を決めかけていたが、その仕事をあきらめ、二ヶ月間、週末をのぞく毎日の通院を支えてくれた。
私は若い頃からずっと、群れず頼らず、気を張って仕事一筋でやってきた。人に頼らない代わりにひとからの助言や忠告を受け入れることもしなかった。しかし病を得て、自分一人で渡っていると思っていた世間が、実は多くの隣人の善意によって支えられ成り立っているという当たり前のことにようやく気づかされた。心配されることの幸せ、頼る者のいることのありがたさを身をもって知り、それまでいかに傲慢に生きてきたかを私は痛感した。頑なだった心がほぐれ、自分も他者の気持に寄り添い人を支える存在でありたいと思うようになった。
その後も元気に仕事を続けて数年前に定年退職した。在職中は自分の病気を口にすることはなかったが、今は進んで体験を語っている。定期健康診断と病気の早期発見の重要性を伝えるのも体験者の役目と思うこの頃である。
