TOP第12回入賞作品第12回 佳作「まだ間に合う、すべてのひとへ」
最終更新日 : 2026/06/29

第12回 佳作「まだ間に合う、すべてのひとへ」

「まだ間に合う、すべてのひとへ」
古井 菜月さん(京都府)

 朝の光が店のシャッターの隙間から差し込むころ、母はもう働いていた。人より少し早く一日を始め、人より少し遅く一日を終える。そんな毎日を、母は長いあいだ繰り返していた。

 母は自営業だった。朝は早くから店を開け、夜遅くまで働く。休みの日も仕入れや帳簿に追われ、家にいても仕事のことばかり考えている人だった。学生や会社員のように毎年決まった健康診断があるわけではないため、周囲が定期検診を勧めても「私は体が丈夫だから大丈夫」と言うのが、気丈な母の口癖だった。たしかに母は風邪もめったにひかず、薬を飲んでいる姿も見たことがなかった。忙しい毎日を当たり前のように乗り切る姿に、幼い私は母が病気とは無縁の人だと思っていた。

 けれどある日、母がぽつりと言った。「最近、ちょっと体がおかしい感じがするんよね。」最初は軽い疲れだろうと、母も私も気に留めなかった。それから三ヶ月ほどたつと、次第に不調は全身に広がっていった。それでも母は市販の胃腸薬を飲むばかりで、病院へ行こうとはしなかった。
 そんなある日、学校で定期健診を受けて帰宅した私は、寝込む母に言った。「ママも健診を受けてみたほうがいいんじゃない?」それは、ちゃんと自分の体と向き合ってほしいという思いから出た言葉だった。母は「そうだね、もうそろそろ見てもらいに行かなきゃね」と言い、後日人間ドックを予約した。それは母にとって、ほとんど初めての本格的な検査だった。そして結果は思いもよらないものだった。

「がんの可能性が高いです。」

 診察室の空気が急に重くなったように感じた。医師の説明を聞きながら、私は言葉を失っていた。母はしばらく黙っていた。そして小さくつぶやいた。「もっと早く受けていれば良かったね。」

 その言葉は誰かを責めるものではなかった。ただ自分自身に向けた、静かな後悔のようだった。後日の再検査により、母はステージ4のがんだと診断された。もし数年前に人間ドックを受けていたら。もし体の変化にもっと早く気づけていたら。そんな「もし」を何度も考えた。母はその後治療を続けた。けれど病気の進行は早く、診断から半年後、母は亡くなった。病室の窓から見える空がやけに静かだったことを覚えている。母は最後まで弱音をほとんど言わなかった。それでも一度だけ、こんなことを言った。

「忙しい人ほど、自分の体を大事にできないのよね。」

 その言葉を聞いたとき、胸が締めつけられた。母はずっと忙しかった。昼も夜も働くことが当たり前で、自分の体のことはいつも後回しだった。

もし母が毎年健診を受けていたら、今でも生きていたかもしれない。そう思うと、悔しさが込み上げてくる。自分の体と向き合う時間のない人にとって、健診は体が出している小さな合図に気づくための機会なのだと思う。何もなければ「よかったね」と安心できる。もし何かが見つかっても、早く見つかるほど命を守れる可能性は高くなる。

 「もっと早く受けていれば。」その言葉は、私たち家族の後悔であると同時に、大切なことを教えてくれた言葉でもある。忙しい人ほど、元気なときほど、どうか一度健診を受けてほしい。それは自分の未来を守るためだけではない。大切な人と過ごす、これからの時間を守るために。母が残したその言葉を、今度は私が誰かへ届けていく。まだ間に合う、すべての人へ。